Garage Coffee

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小学5年生の僕はビートルズに出会った

私が、ビートルズと接したのは、確か日本公演のテレビ放送だったと思います。
 小学校5年生、ビートルズの名前くらいは知っていても、誰がジョンかポールかなど知る由もありません。ロックンロールミュージックを歌っているグループくらいしか認識していませんでした。テレビを見ていると、リンゴのファンの声援が多かったように記憶しています。
 それから音楽に目覚め、父に頼んで職場の人が使わなくなったガットギターをもらって来てもらい、ギター歴が始まります。当然のことですが、6本ある弦のチューニングもできませんし、コードなるものの存在すら知らず、1本の弦でメロディを奏でている程度でした。
その後、日本でもグループサウンズのブームが起こり、ブルーコメッツ、スパイダース、タイガースやテンプターズと言ったメジャーなバンドの他にも、ヴィレッジシンガース、ワイルドワンズ、オックスなども良く聴いていました。

バンド結成

中学に入学すると、同じクラスにいたY君が完璧なほどギターを弾きこなし、エレキギターも持っていて、ベンチャーズの曲はほとんど弾くことができました。

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同じクラスにE君がいて、3人でバンドを組もうと話がまとまって、私はドラムをやることになり、ガットギターしか持っていなかったので、早速近所の先輩にドラムを譲ってくれる人はいないか聞くと、大和田に譲ってくれる人がいると言うので、先輩と電車で取りに行きました。当然、手足を同時に使い演奏するドラムセットなどできるはずもなく、3人のバンドも1度も練習することもなく、解散してしまいました。

新品のエレキギターを買った

高校生になると、同じクラスにビートルズ好きのS君がいて、ビートルズ談議に花を咲かせ、ビートルズシネクラブに加入し、クラブのイベント「ビートルズ復活祭」に行ったりもしました。ビートルズのレコードを聴いているうちに、やはり演奏したいと言う気持ちが大きくなり、近所の昔グループサウンズをやっていた先輩に、弾かなくなったハニーのリッケンバッカーモデル「SG-5」を譲ってもらいバンド活動が始まります。この前に中学3年の時に、テスコのソリッドギターやファーストマンのセミアコなどを入手しましたが、ハニーのリッケンバッカーモデルはビートルズの使っていた形のギターでしたので、嬉しくて毎日弾いていた記憶が鮮明に残っています。そこで、同じクラスのS君とその友人のO君と3人でバンドを組み、O君の家が石屋だったので、日曜日に作業場で練習を始めました。

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2年生の春休みに、アルバイトをして、初めて新品のエレキギターを買うことができました。グレコのSGモデル「SG-360」です。この後1980年に新たなギターを入手するまで、このギターが、私のメインギターとなるわけです。このギターを抱え、たくさんのライブやダンスパーティーに出演しました。高校の文化祭で演奏するために、別のクラスのS君にサイドギター、K君にベース、T君にドラムを頼み、2年生の文化祭、予餞会、3年生の文化祭と他校の文化祭にも出演していました。最初に就職したところが成田国際文化会館でしたので、ここの大ホールを使ってコンサートも開きました、観客は300人ほどしか入りませんでしたが…。

「スーパーおやじバンドフェス」で優勝

その後、成田市役所に入り、このバンドKAISERは続いていたのですが、メンバーが遠くに就職したりして、活動ができなくなったこともあり、成田市役所のギター部に参加することになります。当初は、数人で始めたクラブでしたが、何年かすると会員が増えたので2つのバンドに分かれ誕生したのがKSO2です。

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市内のイベントに参加したり、自主ライブを開催するなど活動をしていました。ビートルズが来日して40周年記念として「スーパーおやじバンドフェスティバル2006」が開催され、ビートルズの曲を課題曲として、千葉そごうで千葉県大会があり、スローダウン、ベイビーイッツユー、ビーマイベイビーで参加すると、優勝してしまいました。ビートルズが来日した時に泊まったヒルトンホテル、名称が変わってキャピタル東急ホテルが取り壊されることになり、全国大会が記者会見を行った「真珠の間」で開催することになり、千葉県代表として出場しました。優勝することはできませんでしたが、この大会「バンドライフ2006」はNHK-BS2で放送されました。この時、茨城県代表と神奈川県代表のバンドと私たち千葉県のバンドで特番が作られ、全国大会に挑む様子を、取材されました。私のバンドは全員が市役所職員なので、その仕事ぶりも紹介され、40分番組としてNHK-BS2で放送されました。

妻からの贈り物「リッケンバッカー#320」

話が前後しますが、1980年結婚をした時に、妻から本物のリッケンバッカー#320をプレゼントされ、ここから楽器収集が始まります。

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#320は定価25万円でしたが、本物なのにどうもジョンレノンの物と違うと言うことが、段々わかってきまして、製造年によって仕様や使っている部品が違うことがわかりました。当時ジョンレノンと同じ#325と言うモデルは、ジョンレノンのために作られたギターなので同じものは存在しないと言うこともわかり、可能な限り当時の部品を収集しジョンレノンのギターと同じに変えて行きました。
 ジョンレノンは4本の#325を持っており、デビュー前の1959年にハンブルグで購入したもの、1964年にリッケンバッカー社から贈られた、新しいタイプの#325(前の物と比べ、ビブラートユニットがビグスビーからアクセントビブラートに変わり、ピックガードもゴールドから白に、さらにコントロールノブが4個から5個に追加されています。)同時に贈られた、#325の12弦、リッケンバッカーのイギリスでの販売店ローズモーリスから贈られた、通常モデルの#325(前の3本は黒ですがこれは、ファイヤーグローと言う赤いサンバースト色でfホールが開いています。)最後の、fホール付きの#325は普通に出回っていたモデルなので興味はなく、前の3本を完璧に仕上げてあり、雑誌やテレビの取材も何度か受けています。#325については一時期5本を所有していました。
 その後、ビートルズが使っていた楽器が入荷したと聞くと、まず先に見せてもらい、店頭に出る前に購入し50本を数えるほどになってしまい、楽器は使っていないと良い状態が保てないとのこともあり、欲しいと言うマニアに少しずつ譲っています。

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ビートルズのロールスロイス

そこで、車に話しは変わりますが、ビートルズが好きと言うことで、当然車も英国車となります。ビートルズが女王陛下からMBE勲章をもらいに行く時に乗っていた黒いリムジン。ロールスロイスのファンタムⅤですが、サイケデリックが流行りだした1967年、ジョンレノンはこのファンタムⅤに、黄色をベースにした花柄模様の本人曰くロココ調のペイントを施します。

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車は好きでしたが、当時小学生で派手なロールスロイスくらいにしかわかりませんでしたが、その後免許証を取得し、ビートルズのことを調べるうちにファンタムⅤであることがわかるのですが、新車時で2億円もする車が中古でもそれなりの値段、買えるわけがありません。車の雑誌を見ているとシルバークラウドⅢが売りに出ていました。ファンタムⅤと並べれば大きさも違い車に興味がない人でも違いが判りますが、ファンタムⅤはリムジンなのに対し、シルバークラウドⅢは通常に自分で運転する車です。しかも顔が素人目に見て同じ、自分でも無理をすれば購入できる値段でしたので、四日市まで見に行きました。先約がいて私は9番目。ところが前オーナーから名義変更をしていなかったため、その人が亡くなり、名義変更ができないことがわかり諦めざるを得ませんでした…。

その時、すでに現在所有しているMG-TF1500を入手していましたので、分相応にしていればよかったのに、1934年のロールスロイスが売りに出ているのを見つけ、大阪まで見に行き、値段が折り合い購入してしまいました。しばらく乗ったらシルバークラウドⅢに変えようと思って…。バブルの頃に4千万円で購入したものだそうです。納車後わかったことですが、普通にエンジンはかからない、内装はかなりくたびれている等々大分お金がかかりましたが、何とか車検を取得し、近場を走ることはできるようになりました。しかし、昭和11年製の車です。普通に街乗りはムリでした。結局、四日市の友人に引き取ってもらい、整備にかけたお金は乗せられませんでした。
 やはり、ロールスロイスを乗る、所有する身分ではないことを痛感するのですが、外国製自動車の魅力に負け手を出してしまっています。車で金銭的に得をしたことはありませんが、音楽もそうですが、共通の趣味で知り合ったたくさんの人たちは何物にも代えられない私の財産です。
現在レストア中の1948年製MG-YAなど次回ご紹介したいと思います。


”私とビートルズそして車”
共通の趣味で知り合ったたくさんの人たちは何物にも代えられない私の財産です。
                          ーーー”小川 浩”




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